栃木の磐座


温泉神社ゆぜんじんじゃ
栃木県那須郡那須町湯本182


■賽河原で怨念を孕む殺生石

 平家物語「那須与一」の条に、与一が源氏の代表として扇の 的を射るとき、「南無八幡大菩薩、我国の神明、 日光権現・宇都宮・那須のゆぜん大名神、願わくは あの扇のまんなかを射させ給え」と祈願をこめる場面がある。
 与一が 鏑矢を弓につがえて引きしぼり、ひょ うと放ち、みごと扇のかなめを射とおしたとされ る名場面だ。ここに「那須のゆぜん大名神」とあ るのが、殺 生石(せっしょうせき) に隣接する温泉神社のことだ。
 オオナムチ(大己貴命)とスクナヒコナ(少彦 名)を祭神とする式内社で「ゆぜんさま」とよば れている。「ゆぜんさま」とは、湯本温泉を開い た伝説の 翁のことだが、この地域の産土神(うぶすながみ) だったのだろう。鎌倉・室町期を通して那須一族の崇 敬をうけ、のち黒羽藩の保護におかれ、 明治5年、郷社となった。
 殺生石は那須温泉でもっとも古い歴史をもつ 「鹿湯」の源泉ちかく、賽河原とよばれる場所 にある。温泉神社から北に200メートルほど下 ったところだ。なんともオドロオドロしい名の石 だが、その由来もまたオドロしい。
(『磐座百選』より一部抜粋)





日光・開山堂にっこう・かいざんどう
栃木県日光市山内


■今もなお開祖・勝道上人が眠る仏岩

日光開山は奈良末期、下野国出身の勝道上人 によって行われた。少年のころから仏門にはいり、 下野薬師寺で受戒得度して勝道と名のり、31 歳のとき、この地の北方にそびえる二荒山の登拝 を思いたったという。のちに二荒が音読みされて 日光となるが、中禅寺湖畔にコニーデ型の優雅な 姿を見せる男体山だ。
 峰修行と仏典の研鑽をつんだ勝道は、現在神橋 がある大谷川の南岸に至り、川を渡ろうとしたが、 谷が深く急流のため渡れない。そのとき対岸に、 深沙大王があらわれ、赤と青の蛇をからま せて虹のような橋をかけ、渡岸を助けたという。 対岸に渡った勝道は、いまの日光山内に草庵を建 て、毎朝礼拝石に座り、二荒山を遥拝していたと ころ、東方の石から紫の雲が立ち昇り、二荒山の 方向にたなびいたと伝わる。この石が「紫雲石 と よばれ、いまも四本龍寺の境内に座している。
 この四本龍寺の創建が、日光開山の紀元とされ ている。766(天平神護二)年、勝道32歳 のときだ。翌年、二荒山登拝を試みるが果たさず、 宿願がかなうのは、それから15年後、48歳 まで待たねばならない。そして驚くことに、亡く なる前年、82歳のときに、再び二荒山の頂上 に立ち、巨岩の前で二荒山神と対面したとされる。 頂上の「対面石」といわれるもので、付近からは、 奈良期から江戸期に及ぶ多種多量の祭祀遺物が出 土している
(『磐座百選』より一部抜粋)




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